(2017年9月より一部抜粋)

死生観とは生と死についての考え方です。2歳児くらいになると、「生きてる」「死んでる」と言葉にしたり、理解しているようにみえる場面もありますが、動くか動かないかの違いや、一時的な離別(どこかへ行ってしまう)と単純な認識によるものです。心理学的には、命の不可逆性(=死んだら生き返らない)を理解するのは小学校低学年~中学年くらいのことだと言われています。先日園庭で、ヤモリの命を殺めてしまう悲しい出来事がありました。ふらりと園庭に現れたヤモリ。観察のためという理由で、突然狭い虫かごに閉じ込められ、わずか数日後に命尽きることとなってしまいました。ピンク色のお腹をした小さくて柔らかいその命。名前を付けてもらうこともなく、あるはずだった時間を奪われてしまったことに涙をこらえきれませんでした。
しかし、泣いている場合ではないのです。これは一大事。飼育を始めた保育者が管理しきれなかったことは一番の反省です。しかし、子どもたちにも何か、このままで済ませてはいけない気がします。就学前の子どもに育まれなけらばならないことの一つに「生命の尊さに気づく」という課題があるからです。私たちは、この出来事を重くとらえ、目の前の子どもたちにできることの全てを考え、行動しなければなりません。
命に関連する絵本を読もうが、命の大切さについていくら言葉をならべようが、それでは物足りず・・・難しすぎれば伝わりません。身近な大人が死をきちんと悲しみ、生身の感性で悼み、子どもたちなりに感じたり、考えたりするきっかけを作りたいと思いました。ふじのもり保育園の園庭には今、ヤモリのお墓があります。そこに毎日、お水を供え、お線香をたて、弔いと謝罪の気持ちを込めて手を合わせています。基本的には私がします。子どもたちにはあえて、当番制にしたり促したりすることはしていません。長期的な試みですが、子どもたちの心の芯の部分に、ほんの少しでも響くことを願っています。個々の発達にかかわらず、思春期には多くの子どもたちが何らかの形で命や死について考える時期になります。それまでに、健全な死生観が身についていないことで、今様々な問題が起きています。どうかここに育つ子どもたちが未来に、自分の命を輝かせ、他の命をも大切にすることができる大人になること祈っています。 

あれから6年・・・

先月、恒例の同窓会が行われました。上記、幼き日の奮闘から年月を経て、小学6年生となった子どもたちが帰ってきてくれました。帰り際に園庭に出た卒園児。「そういえば、ヤモリのお墓があったよね。」「あったあった。」と言い出し、みんなで両手を合わせて供養してくれました。6年たった子どもたちの心に残っていたことがとても嬉しく、保育する営みの真髄に触れたようにも感じました。